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もしかして

俳句は季語を入れて五七五に言葉を並べればとりあえず誰でもそれなりの句になってしまうという、いわば究極の「ポエジー発生器」(これは水内慶太氏が結社誌で使っていた言葉)といえるかもしれない。

「誰でもそれなりの句になってしまう」というのは考えてみれば恐ろしいことで、その分読み手にかなりの負担がかかってくる。取るに足らない句をわざわざ深読みしてあたかも名句のように鑑賞することだって出来るし、とっさに意味の繋がらないようないわゆる難解句に出会うと教養の無い自分のような人間はその知的な感触についつい怖気づいてしまうのである。

俳句は主観が表に出すぎると失敗しやすいということはよくわかる。
それならば、と歳時記をめくりながらふと思った。

冬霧や四条を渡る楽屋人 中村吉右衛門
冬夕焼わが失ひし血のごとく 木下夕爾
冬の虹消えむとしたるとき気づく 安住敦

歳時記の同じページに載っていた「冬霧」「冬夕焼」「冬の虹」の三句。
これらの上五、中七、下五をテキトーに入れ替えてみるとどうなるか。

冬霧やわが失ひしとき気づく
冬夕焼消えむとしたる楽屋人
冬の虹四条を渡る血のごとく

もしかしてこういう句を句会に出して合評したら、それなりの評が得られる?かも?
三句目なんて、なかなかいい句のようにも思える。パクリといえばそれまでだが、コラージュとかサンプリングと無理に言ってみたい気もする。

今回はテキトーに句を抜粋しただけだからもう少し時間をかけて選べばもっと面白いことになるかもしれない、なんて思ったりするが...。
どうか。


本日のウラハイ担当してます。

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