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余技

秋櫻子の言う「余技」と万太郎の言うそれとは違うのだ。秋櫻子は「余技」を一段劣るものと、おそらく考えている。しかし、万太郎はそうは思っていない。「余技」こそが俳句にとって本筋であると思っているのだ。
 ここに万太郎の「余技」を貫くこころを読み取った。近代の俳句は、虚子を始めとする、本技として俳句を選んだものが主流をなすと考えられているのだが、それを拒むこころでもあろう。その本流派は「花鳥風詠」や「新興俳句」あるいは「人間探究派」といった旗印を掲げたり、主張を競いあったりしてきた。万太郎はそういう運動が俳句の本質を損ねてしまうと感じていたのではないか。
 俳句には大声を立てると失せてしまう微妙なものがあることを、万太郎はまず自らの作品に聞き取っていたのではないか。

われとわがつぶやきさむき二月かな   万太郎「春燈」

(「余技・無内容・影響-久保田万太郎小論」小澤實)


俳句のかっこよさって結局はこのあたりではないかと。

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